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春の七草の「すずな」として親しまれてきたかぶ(蕪)は、中央アジアから地中海の辺りが原産地といわれ、日本では弥生時代に中国から伝わりました。
蕪には中国から伝わったアジア型と、緒戦半島経由で東日本に伝わったヨーロッパ型の二種類があります。アジア型は肥大化した根が特徴で、西日本中心に栽培され、京都の聖護院蕪など各地の地方に根付きました。天王寺蕪もそのうちのひとつです。
●天王寺蕪は、筋金入りのなにわの伝統野菜
大阪市天王寺付近発祥の天王寺蕪は切れ葉と丸葉のタイプがあり、根身は純白で扁平で、地上部に浮き上がるため「天王寺浮き蕪」とも呼ばれました。
「形平均(ひらたく)大にして草葉少し味甚甘くして如も軽和(かろくやわらか)なり。乾蕪として諸国に送る。西成郡木津、今宮の辺住吉郡に懸て作得たりと云えども皆天王寺蕪の名を以て市店に所商之也」との記録(「摂陽群談」)があります。
天王寺蕪は、江戸時代初期から明治時代にかけての約300年間、なにわの天王寺村の特産物として諸国にその名が知られ、干蕪や漬物など様様な形で出荷されましたが、中でも江戸時代中頃に天王寺六萬体の三分屋・六萬堂というお店が粕漬を作って売り出したところ、そのおいしさでたちまち近隣諸国の評判となりました。その後、大阪の特産品として順調に生産を伸ばし、明治21年の大阪府内の生産量は約四十八万貫(約1800トン)となり、名実共になにわを代表する野菜の一つでした。(『農事調査』)
●天王寺蕪は俳句や歌などにも詠まれました
名物や蕪(かぶら)の中の天王寺
(与謝蕪村)
此頃は蕪曳くらん天王寺
(正岡子規が四国の松山で蕪の漬物を待ちわびて)
思いでる鱧(はも)の骨切りすりながし吹田くわいに天王寺蕪
(大田燭山人) |
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●野沢菜のルーツは天王寺蕪
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野沢「健命寺」
野沢菜畑
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信州野沢に曹洞宗の名刹健命寺というお寺があり、宝暦6年(1756)、この健命寺の第8代目住職晃天園瑞(こうてんえんずい)和尚が京都に遊学した際に、土産にと天王寺蕪の種を手に入れました。
さっそく持ち帰ってこれを寺内の畑に播いたところ、標高600m、1月の平均気温が零下6度という野沢温泉の気候と土質が影響して、蕪自体は育たず、代わりに葉柄、茎丈の異様に大きい不思議な「蕪菜」に成長しました。
これが信州名物野沢菜漬(野沢菜)の始まりだそうです。
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野沢菜は、温暖な西国育ちの天王寺蕪が、野沢温泉の気候や風土により生まれ変わったものなのだそうです。
ところが本家の天王寺蕪は、明治35年頃害虫により大きな被害を受けてから徐々に作られなくなり、大正時代には姿を消してしまいました。
●天王寺蕪の復活
漬物などには向いている天王寺蕪ですがいつの間にか姿を消してしまい、最近まで名を残すのみとなっていました。
平成8年、木津卸市場のお漬物屋さんが我孫子(あびこ)の畑で蕪を抜いているおばあさんを見かけ、何気なく話を聞くと、その蕪が天王寺蕪だったのです。
少しだけ分けてもらったこの種を絶えさせてはならないと、羽曳野農林技術センター(前回「ほんまもんの野菜」を書いていただいた森下先生)に預け、そこで現在まで、大切に育てられ種取りをされるようになりました。
現在は、なにわの名物を復活させようと、「天王寺蕪の会」が発足し、各地の有志の方々と連携して様々な試みを加えながら播種・栽培を行われ、また大阪市内(天王寺区や阿倍野区)の小学校でも栽培が始まっています。
●蕪は大阪の土地柄に合う野菜
蕪は歯ごたえ歯切れのよさが持ち味で、特に天王寺かぶらは緻密な肉質でほんのりとした甘みがあり、生で食べてぬるっとした食感があります。
「天王寺蕪は、形がそろいにくく、割れやすいなどの欠点はありますが、水はけのよい土地ならたいてい大丈夫でそのうえ粘い土質ならさらに味もよくなります。大阪でも秋から冬にかけて安定して収穫できる、育てやすくて重宝な作物です。」(大阪府立食とみどりの総合技術センターの森下正博・都市園芸グループ長)。
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