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十日えびすと酉の市の話
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● 十日えびす |

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毎年1月10日は十日戎といわれこの日を本戎、前日を宵戎、翌日を残り福と称し三日を祭礼の日としています。
「戎(恵比寿)」様は、「七福神」の中の一人で、釣り竿と鯛を両手に持ってほほえんでいる神様です。遠くの海からやってきて人々をしあわせにする神様だといわれ、漁業の神、商売繁盛の神、福の神として親しまれています。
この祭礼では、枝先に縁起物を飾った「笹」を売り賑わいます。
その「笹」を売るときのかけ声が、かの有名な「商売繁盛、笹もってこい」なのです。
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戎様自体はは全国的に有名ですが。十日戎というのは東京の人には馴染みが薄く、西日本の行事のようです。
東京にはエビス神社が30社もありませんが兵庫県や京都府は200社以上、広島県に至っては400社を超えるそうです。
最も賑やかな大阪の今宮神社の十日戎。宵戎、戎、残り戎の3日間で訪れる人は100万人と言います。
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● 市場の神様 |

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えびす様は日本の神で古来から漁業の神です。
夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などとも記し、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称されます。
平安時代後期には、えびすを市場の神(市神)として祀ったという記録があり、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮内に市神としてえびすを祀ったそうです。やがて中世を通じてに商業が発展するにつれ、「えびす様=商売繁盛の神」とされていきました。
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● 福の神 |

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えびす様は「商売繁栄=富をもたらす=福の神」として、福神としても信仰されるようになり、やがて七福神の1柱として数えられるようになりました。
福神としてのえびすは、ふくよかで「えびす顔」の言葉どおりの笑顔で描写されています。
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● 裏銅鑼 |

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また、えびす神はよく耳が遠い神様であるとされており、そのため参拝するときは、神社本殿の正面だけではなく、本殿の裏側にまわり、そこにある銅鑼を叩いてえびすの神様の注意をひいて、願い事をしなくてはならないとされてきました。
このため今宮戎神社など、えびす神を祀る神社の本殿の裏にはドラが用意されていることが多いです。
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● 十日戎 |

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えびす様を祀る神社の多くでは、毎年1月10日を中心とする数日間、十日戎(とおかえびす)と呼ばれる祭が行われ、商売繁盛に御利益のある福笹・熊手などの授与が行われます。
笹は「いのち」と「生命力」の象徴
笹は、孟宗竹の枝のことです。
竹は「竹取物語」など、古代から、文学、美術、芸能、民具など日本人の生活とは密接な関係を保ってきました。
日本では特に竹のもつ清浄さ、根強さ、節により苦難に耐え忍ぶ姿、冬も青々とした葉を付け、更に竹林の生命の無限性、旺盛な繁殖力など、そこに強い生命力と神秘性を感じとり、神霊が宿るとさえ信じられ尊ばれてきました。
こうした日本人の竹に対する感性が、色々な神事に笹が用いられることになり、竹取物語のかぐや姫が、竹から生まれるのも同様の信仰から基づいたものです。
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● 小宝(吉兆) |

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十日戎を象徴するのが、神社から授与される小宝です。
小宝は「吉兆」(きっきょう)とも呼ばれ、銭叺(ぜにかます)・銭袋・末広・小判・丁銀・烏帽子・臼・小槌・米俵・鯛等の縁起物を束ねたもので、「野の幸」・「山の幸」・「海の幸」を象徴したものです。
別の言葉として「山苞」「海苞」「家苞(いえづと)」とも呼ばれいます。苞というのは、外からは内部が見えない簡単な容器のことで、もともと山や海や家からの「贈り物」を入れるうつわのことでした。「山苞」は山の神の聖なる贈り物、「海苞」は海の神の聖なる贈り物、「家苞」は里の神の聖なる贈り物となるわけです。これを「市」でそれぞれ交換します。それぞれを「替える」わけです。
これが「買う」という言葉になります。
この「野の幸」・「山の幸」・「海の幸」を象徴した吉兆は、その中にこもる「御神徳」をいただく信仰を受け伝えたものです。
この吉兆を笹につけて参拝者は家路につきます。江戸期に作られた歌謡にも次のようにその状景が歌われています。
「十日戎のうりものは、はぜ袋に取鉢、銭かます、小判に金箱、立烏帽子、米箱、小槌、たばね熨斗、笹をかたげて千鳥足」
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● 日本の主なえびす神社 |
関西 |
大阪府 今宮戎神社、堀川戎神社
京都府 京都ゑびす神社 八坂神社 智恩寺
兵庫県 西宮神社 蛭子神社 長田神社 海神社 射楯兵主神社 |
関東 |
神奈川県 三嶋神社
群馬県 桐生西宮神社
栃木県 西宮神社
群馬県 高崎えびす講市(高崎市・11月)
群馬県 桐生えびす講(桐生市・11月) |
中部 |
石川県 輪島前神社
愛知県 熱田神宮
長野県 長野えびす講煙火大会(長野市・11月)
山梨県 甲府えびす講祭り(甲府市・11月) |
中国・四国 |
愛媛県 大洲神社
山口県 牛島えびすまつり(光市・4月)
広島県 胡子講(広島市・12月) |
九州 |
福岡県 十日恵比須神社
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● 今宮戎神社‥‥‥なにわの商売の神様 |

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豊臣秀頼は片桐且元に今宮戎社殿造営の普請奉行を命じました、またこの頃より市街が発達し、大阪町人の活躍が始まり、江戸期になると大阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮戎神社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになりました。
十日戎の行事は既にこの頃から賑わいをみせ、延宝三年(1675)の現存する最も古い大阪案内の図「葦分舟」にも十日戎の状景が描かれています。
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また文芸の分野においても江戸初期の俳人小西来山の句集で今宮のことが書かれており、中期の大田蜀山人の紀行文にも十日戎が記されています。また浄瑠璃「艶容女舞衣」では十日戎が重要な背景として設定されています。
明治には、それまでの問丸が雑喉場の魚市場、材木商組合、麻苧商組合、蝋商組合、漆商組合、金物商組合等が講社を結成し、十日戎はより一層盛んになりました。
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このように時代とともに盛大になってゆく祭礼ですが、惜しくも昭和二十年の戦災で神社はことごとく焼失しました。しかしながら昭和三十一年には本殿が復興し、再び十日戎も活況を呈するようになり、現在では年の最初のお祭りとして十日戎の3日間に約百万人を超える参詣者があります。
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 正面
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 裏側(裏銅鑼)
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● 宝恵駕籠(ほえかご)行列 |

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江戸中期、元禄の頃から十日戎の祭礼を彩る宝恵駕籠の奉納が行われるようになりました。
宝暦の頃には、宝恵駕籠行列は駕籠に紅白の布で飾られた駕籠に盛装した芸者が乗り込み、その周囲を幇間が取り囲み「ホエカゴホエカゴ、エライヤッチャ、エライヤッチャ」の掛け声とともに参詣するようになりました。
現在では宝恵駕籠も地元商店街の協力により昔の様式を残しつつ現時代に添うよう芸能人、野球選手、文楽人形等の参加を得て行列を華やかに盛り立てられています。
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● 福娘とえびす娘 |

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福娘は、1980年に福娘発表会が始まりました。
第1回目の参加者はわずか20人でした。
過去最高は1988年の3000人です。
後に芸能界入りを果たしたり、就職でアナウンサーに採用されたりする人もいました。
関西では就職や縁談に有利に働くといわれています。
2007年からは外国人留学生枠が設けられました。 全応募者の中から書類選考されて、1次面接(今宮戎神社で開催)、2次面接(朝日放送ホールで開催)を経て全応募者の中から45人(うち5人は留学生枠)が福娘として選出されます。
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● 戎橋となんばCITY |


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戎橋は、難波から心斎橋に向かう途中にあり、かってカーネルサンダースの像が川に放り込まれた場所です。
戎橋は、そもそもこの橋が、今宮戎神社への参詣の道筋に架けられたことから、「戎橋」の名が付けられたものです。
江戸時代には、毎年の十日戎に、市中の人々は皆この橋を渡って、戎さんに詣り、往き帰りの群衆で橋上は大へん賑わいました。こ
の戎舞台は、今宮戎神社と戎橋の、往昔からのこうした深いつながりに因んで、毎年一月十日の「十日戎」の祭日に、この場所に仮設される古例を復興したものです。
ちなみに東京の恵比寿もルーツは恵比寿様です。
今宮戎神社へ参拝する、もっとも重要な道筋にあたる今のなんばCITYは、三百年以上の昔から、「十日戎」の祭日には参詣客が道をうずめ、福笹の波が青々と道にあふれました。昔も今も変わらぬ情景ですが、なんばCITYと十日戎のこうした深いつながりに因んで、毎年一月の「十日戎」の祭日には、ロケット広場を中心に賑やかに飾りつけられ、献灯されています。
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